語彙力が足りないと感じたら
書こうとして手が止まったとき、多くの人は「自分は語彙力が無い」と結論します。けれど手が止まる理由をよくある3つに分けると、語彙の量が原因なのはそのうち1つにすぎません。残り2つは、語をいくら覚えても解けません。
語彙力という言葉が曖昧すぎる
「語彙力が無い」は、症状の名前であって原因の名前ではありません。熱が出ているのと同じで、そこから先を分けないと手当てができない。実際に手が止まる場面を、ここでは次の3つに分けます。
3つの詰まりと、その抜け方
いま自分がどれで止まっているかを先に決めると、探す先が決まります。
1. 感情が特定できていない
書きたいものが、まだ言葉になっていないこうなっていたら——頭にあるのは「なんとも言えない感じ」だけで、書き出しが決まらない
before 彼女は、なんとも言えない気持ちになった。
彼女は気まずかった。
before 言葉にできない感情が押し寄せた。
彼は、悔しかった。
いったん、平凡な1語で確定させます。「悲しい」「気まずい」で構いません。むしろ平凡なほうがいい——範囲が広く、あとから絞り込めるからです。凝った語で確定させると、その語に引きずられて場面のほうが歪みます。1語に決まれば「静かなほうか、激しいほうか」という次の問いが立てられます。
2. 場面が決まっていない
感情は決まったが、書く対象がまだ無いこうなっていたら——感情語を置いた一文しか書けず、その先が続かない
before 彼は悲しかった。
通夜の帰り道だった。彼は、コンビニの前で足を止めた。
before 彼女は嬉しかった。
面接の帰り、まだ午前中だった。彼女は、遠回りして駅まで歩いた。
感情だけが宙に浮いていると、書けるのは説明文だけになります。手に何を持っているか・周りに誰がいるか・時刻はいつか。この3つのどれか1つを決めるだけで、書ける文が一気に増えます。語彙が足りないのではなく、書く対象が無かっただけだと分かります。
3. 語を知らない
条件は揃っている。本物の語彙の問題こうなっていたら——感情も場面も決まっているのに、対応する言い回しが出てこない
before 彼女は歓喜した。
彼女は、思わず声を上げそうになった。
before 彼は憔悴していた。
彼は、二日ぶりに椅子から立ち上がった。
この段階で類語辞典を引いて、出てきた語をそのまま置くと硬さがずれます。類語は「意味が近い語」であって「その場面で使える語」ではありません。硬さ・古さ・語り手との距離が合っていないと、そこだけ浮きます。語ではなく例文の形で探すほうが速いのはこのためです。
語彙の勉強が効くのは3だけです。1と2の状態で語彙集を読むと、知らない語が増えるだけで手は動きません。むしろ「こんなに知らない語がある」という感触が残って、書けない感じが強まります。2で場面を決めたあと、そこから感情を立ち上げる型は感情を直接書かない方法に4つまとめてあります。
切り分けが効かないとき
3つに分けても抜けないことがあります。そのとき起きているのは、語の問題ではなく、その場面を書きたくないという状態です。書くのが辛い題材、自分の経験に近すぎる場面、まだ距離が取れていない出来事。この場合、語彙をいくら足しても手は動きません。
見分け方は単純で、別の場面なら書けるかどうかです。書けるなら、詰まっているのはその場面のほうです。次のどれかに当てはまったら、語を探すのをやめて場面のほうを動かします。
- 他の場面は普通に書けるのに、そこだけ何度も書き直している
- 書き出しを変えても、毎回同じところで止まる
- その場面を飛ばして先に進むと、急に手が動く
順番を入れ替えて先に別の場面を書き、戻ってくる頃に距離ができていることがあります。
もう一つ、切り分け自体をやりすぎないことも大事です。手が動いているうちは分析しなくて構いません。この記事の3段階は、止まったときに開く道具であって、書きながら毎回通す手順ではありません。
語彙を増やす、の実際
そのうえで、長期的に語彙を増やすこと自体には意味があります。ただし覚え方を変える必要があります。語だけを覚えても、使う場面が分からないので出てきません。読んでいて手が止まった一文があったら、その語ではなく一文まるごとを控える。前後がどんな場面だったかも一言添える。これで初めて、書くときに引き出せる形になります。
量の目安を決める必要はありません。一日に一文でも、半年で百八十文になります。それより自分が「いい」と思った文だけを集めることのほうが大事です。他人の基準で集めた語は、自分の文体に馴染みにくくなります。
まとめ
手が止まったら、語を探しに行く前に「今どれで詰まっているか」を確かめてください。感情が決まっていないなら平凡な1語で確定させる。場面が空白なら、手・人・時刻のどれか1つを決める。そこまで済んで初めて、語彙の出番になります。
この記事の3段階は、そのまま辞書の使い方でもあります。1語に決めて、感情表現辞書でその語の言い換えを並べて見る。並べて見ると、自分が書きたかったのがどの方向だったかが分かります。