決まり文句から抜け出す
「胸が締め付けられる」「涙が溢れて止まらない」——書いた瞬間に、どこかで読んだ文だと分かる。けれど代わりの言い方も浮かばない。この詰まりは語の引き出しの問題ではなく、場面が特定されていないことから来ています。
なぜ決まり文句が出てくるのか
決まり文句は、どんな場面にも当てはまるからこそ広まった表現です。「胸が締め付けられる」は、失恋にも別れにも後悔にも使えます。汎用性が高い。だからこそ、書き手が場面を細かく決めていないときに真っ先に出てきます。
つまり決まり文句が出てくるのは、語彙が貧しいからではなく、まだ場面を絞り込んでいないという合図です。合図として受け取れば、直すべきなのは語ではなく、その手前の解像度だと分かります。
だからといって、決まり文句そのものが悪いわけではありません。急いで通過させたい場面では、読み手が引っかからない既知の表現のほうが速い。全部を書き換える必要はなく、力を入れたい一点だけ解像度を上げれば足ります。
場面を特定する3つの問い
それは体のどこで起きているか
部位を1つに絞るbefore 胸が締め付けられる思いだった。
息を吸うたびに、喉の奥が細くなる気がした。
before 頭が真っ白になった。
耳の奥で、自分の脈だけが鳴っていた。
「胸が締め付けられる」が古びて感じるのは、胸という部位が漠然としているからです。喉・こめかみ・指先・耳の裏——1箇所に決めるだけで、同じ内容が自分の文になります。書き手が実際に感じたことのある場所を選ぶのが確実です。
「哀しみ」の言い換えを見る →その感情は、いつ始まっていつ終わるか
時間の幅を決めるbefore 涙が溢れて止まらなかった。
涙が出るまでに、少し時間がかかった。
before 怒りが込み上げてきた。
腹が立ったのは、家に着いてからだった。
紋切り型は感情を持続する状態として書きがちです。実際の感情には始まりと終わりがあり、遅れて来たり、途中で切れたりします。「止まらなかった」を「時間がかかった」に変えただけで、状態が出来事になります。
「静けさ・余韻」の言い換えを見る →その人は、それをどうしようとしているか
対処を書いて、感情を書かないbefore 彼は激しい後悔に苛まれていた。
彼は同じ手紙を三度読み返して、結局出さなかった。
before 彼女は絶望に打ちひしがれていた。
彼女は、明日の分の米だけを研いだ。
感情そのものを強い語で書くほど、読み手は遠ざかります。その感情を抱えた人が何をしようとしたかを書くと、感情語は不要になります。「苛まれる」「打ちのめされる」のような大きな動詞が出てきたら、この問いを立てる合図です。
「罪悪感・後悔」の言い換えを見る →言い換えても直らないとき
別の語に置き換えたのに、まだありきたりに感じることがあります。それは、語だけ変えて別の決まり文句に移っただけだからです。「胸が締め付けられる」を「胸が張り裂けそうだ」にしても、解像度は同じままです。
見分け方があります。その一文を、別の作品の別の場面に貼り付けても成立するか。成立するなら、まだその場面のものになっていません。「息を吸うたびに、喉の奥が細くなる気がした」は、息を詰めている場面にしか使えません。使い回せないことが、特定できた証拠です。
全部を直す必要はない
3つの問いは、書きながら毎回立てるものではありません。読み返して引っかかった箇所にだけ使います。初稿を書いている最中に一語ずつ吟味すると、話が前に進まなくなります。
直す箇所の選び方には目安があります。その場面を思い出すとき、読み手の記憶に残ってほしい一文かどうか。次の順で優先すると、手を入れる量が減ります。
- 場面の締めくくりの一文——ここは読み返されやすい
- 人物が初めて感情を出す場面——印象の基準になる
- 同じ章で二度目に出てきた決まり文句——繰り返しは目に付く
同じ章に決まり文句が3つあっても、直すのは1つで足ります。1箇所が具体的になると、その周りの平凡な表現は背景として働きます。全部を際立たせようとすると、際立つものが無くなります。
凝りすぎのほうも危ない
紋切り型を避けようとして、誰も使わない比喩に走ると別の問題が起きます。読み手が像を結べず、そこで読むのが止まります。決まり文句は少なくとも一瞬で伝わるので、伝達という一点では優れています。
目指すのは珍しい表現ではなく、読み手が一度も見たことはないのに、すぐ分かる文です。そのためには、突飛な像を持ち込むよりも、その場面にもともとあった事実を1つ拾うほうが確実です。感情を書かずに事実だけを置く型は、感情を直接書かない方法にまとめてあります。
胸郭の内側で、錆びた歯車が逆回転を始めたような心地がした。
たしかにどこにも書いていない表現ですが、読み手は像を結ぶのに一拍かかり、そこで場面から出てしまいます。「胸が締め付けられる」のほうが、伝達という一点では優れています。避けるべきは既知の表現ではなく、場面が特定されていないことです。
言い換えの候補を並べて見る
問いを立てても出てこないときは、感情表現辞書で同じ感情の言い換えを並べて読んでください。自分では選ばない方向の表現が混ざっていること自体が、場面を絞る材料になります。
強い語に頼りたくなる場面では、そもそもその感情がどの強さなのかを先に決めると選びやすくなります。静・中・動の使い分けは感情の強さを書き分けるで扱っています。